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寺伝

寺伝  ~信玄公と如意輪観音~

信玄公との出会い

武将像

 伝承によると、戦国時代、武田信玄公が甲斐国から三河国へ出陣のおり、本栖湖畔の赤坂の地を通ると、雷雲風雨、天地震動して、軍を一歩も前に進めることができなくなってしまった。
 途方に暮れていたところ、ふと湖畔の彼方を見ると、幻のような淡い火影が見えた。信玄公主従はこれに力を得てその地にたどり着くと、そこには微笑みをたたえた如意輪観音菩薩が安置されていた。

信玄公の帰依

 この不思議な観音菩薩のお姿に接し、信玄公が戦勝を祈願したところ、たちまち雷雨は去り、無事に三河へ向かうことができた。
 信玄公はこの仏恩に感謝の意をこめ、仏の供養料として御朱印7石と数通の判物を与えて仏を保護した。また、霊験あらたかな観音菩薩を草深い山中に安置することは恐れ多いと考え、家臣である本栖の地頭・渡辺囚獄に、安穏の地に移すよう命じた。

武田家滅亡後の観音菩薩

本栖図

 西暦1582年、武田家は、織田徳川連合軍によって攻められ、滅亡した。戦火は甲斐国中の社寺にも及んだため、渡辺囚獄は、観音菩薩を本栖の長崎に移した。
 しかし、この地は山道が険しく参詣が困難であったため、再度丸山の地に移した。丸山には鉱山があり、多くの人々が住んでいた中で、観音菩薩も敬われるようになっていった。

瀬戸への移転

 丸山の地も、鉱山の廃止とともに衰退した。この事態を憂慮した渡辺囚獄は、信玄公の願いを果たすため、村々へ布告を出し、先着の村に観音菩薩を移すと申し渡した。
 これに対し、まず、中の倉村民が到着したが、観音菩薩は示現(仏が霊験を示すこと)しなかった。次いで、瀬戸村民が到着したところ、観音菩薩が示現した。
 こうして、慶長2年(1597年)5月18日、観音菩薩は、現在の瀬戸の地に移ることが決まったのである。

 

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